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東京高等裁判所 昭和62年(う)704号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人市来八郎及び同清見榮が連名で差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官が差し出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意一(事実誤認の主張)について

所論は、(一)原判決は、床面の灯油への着火経緯について、被告人が一八リットル入り灯油缶(昭和六二年押第二四五号の六。以下「本件灯油缶」という。)と三角柱形カートリッジ式燃料タンク(同押号の一。以下「三角カートリッジ」という。)に挿入中の電動式サイフォン(同押号の三。以下「本件サイフォン」ともいう。)を引き抜いた際、右サイフォン内の灯油がその直近にあつた石油ストーブ(同押号の二。以下「本件ストーブ」という。)の燃焼筒内の残炎にかかつて着火し、更にこれが床面に溢出していた灯油に引火した旨認定しているが、そのような経過で本件火災が発生したと認定するに足りる証拠はなく、出火の経緯は不明であつて、被告人について過失の有無を論ずることもできず、(二)仮に原判決認定のような経過で本件火災が発生したとしても、本件火災の際に二階麻雀荘の客四名が死亡し、同じく一名が傷害を負つたのは、多くの偶然の積み重なりの結果であつて、被告人の行為の支配圏の外で発生したものと考えざるをえないから、右結果と被告人の行為との間に刑法上の因果関係は認められず、これら各点において原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、原審記録を調査して、所論の点を順次考察することとする。

一本件出火の経緯について

昭和五一年一二月二六日午後一〇時四五分ころ、東京都大田区池上五丁目×番×号所在の被告人経営の中華料理店「○○」から出火し、麻雀客ら一二名が現在する同店二階の義父ら経営の麻雀荘「○○クラブ」に延焼し、右二店のある被告人及びその妻の共有する木造瓦葺二階建店舗一棟が全焼したうえ、同建物の西側に隣接する三世帯一二名の居住する木造瓦葺二階建共同住宅一棟も類焼してほぼ半焼したことは、関係証拠上明白であるところ、「○○」からの出火状況についてみると、次のような諸事情が認められる。

1 被告人は、火災発生直前「○○」店内の石油ストーブ三台に給油するため、二台から三角カートリッジを含むカートリッジ式燃料タンク二個を外してきて、店舗西側奥に置かれた本件ストーブ(燃料タンクの取り外しのできないもの)の近くに置き、本件ストーブの芯上下用つまみを消火位置まで回し、南側店外に出て、一八リットル入りの灯油缶一個を調理用バーナーへの給油のため据え付けたのち、同様灯油の入つた本件灯油缶を本件ストーブのそばに持ち込み、まず同ストーブのタンクに本件サイフォンを使つて給油したこと、

2 引き続いて、本件ストーブからせいぜい数十センチメートル程度しか離れていないところに三角カートリッジを置き、これに本件灯油缶から本件サイフォンで給油を始めたが、その途中給油場所を離れて、カウンター上の売上金の始末にかかり、気が付いたときには、三角カートリッジが満杯となり、灯油が給油口から溢れて、床面に広がつていたこと、

3 被告人は、これを見てあわてて給油場所に駆け寄り、本件灯油缶及び三角カートリッジから本件サイフォンを急いで引き抜いたこと、

4 ほどなく床面の灯油に火の走るのが見え、その火が大きくなり、被告人が靴で踏み消そうとしたり、居合わせた実弟のSがトレンチコートで叩き消そうとしたが、消すことができず、被告人が消火弾(ボンペット)を投げると、かえつて火が広がり、その後火の勢は盛んになるばかりで、建物に火が着くに至つたこと、

5 本件ストーブは、つまみを消火位置に回してもすぐに消火せず、燃焼筒内の炎が完全に消えるまでには数分程度かかり、本件に際し、被告人がつまみを消火位置に回してから本件サイフォンを引き抜くまでの時間は、本件ストーブの右消火時間を超えるものではないうえ、当時店舗内には、本件ストーブの燃焼筒内の残炎以外に火の気はなかつたこと、などが認められ、以上からすると、本件ストーブの燃焼筒内の残炎が、被告人の引き抜いた本件サイフォン内から降りかかつた灯油に着火し、これを媒介として床面に溢出していた灯油に燃え移つたものと推認することができる。

確かに、被告人が本件サイフォンを引き抜いたときに、サイフォン内の灯油が本件ストーブの燃焼筒に降りかかつたことを直接に証明する証拠は存在せず、更に、右燃焼筒内の残炎が本件サイフォンから降りかかつた灯油に着火し、その火が床面の灯油に燃え移つたことを具体的に明らかにする証拠もない。

しかしながら、床面の灯油がそれ自体で火を発することはありえないことであるから、何らかの火がこれに燃え移つたに相違なく、また、本件出火当時出火場所付近には本件ストーブの燃焼筒内の残炎を除けば他に火気はなく、火源は右残炎以外に想定しえないところ、右残炎が直接に床面の灯油に着火することもありえないことであるから、床面の灯油に着火するためには、その間を媒介する何らかのものがあつたと考えざるをえない。しかるところ、関係証拠によれば、本件ストーブと本件灯油缶、三角カートリッジとの位置関係は、所論にもかかわらず、本件サイフォンの引き抜き方のいかんによつては、サイフォン内の灯油が本件ストーブの燃焼筒に降りかかることがありえないものではなかつたこと、被告人が三角カートリッジの給油口から灯油が溢れ出ているのを見て、あわててサイフォンを引き抜いていることなどが認められ、これらの状況からすると、サイフォンを引き抜いた際、その中の灯油が本件ストーブの燃焼筒内の残炎に降りかかつて、右灯油が着火し燃え出すに至つたと推認するのが相当である。加えて、本件サイフォンから降りかかつた灯油が燃え出した後、その火が床面の灯油に燃え移る経過についても、原判決が「補足説明」中で説示するように、火が本件ストーブの置き台に置かれていた布片(前同押号の七)を伝わつて床面の灯油に移つたとか、あるいは、三角カートリッジが本件ストーブに接着してあつた場合には、三角カートリッジから溢れた灯油が置き台内にも入つていて、その灯油が燃焼し、これが置き台から溢れ出たという可能性があるほか、サイフォンからの灯油に着いた火が本件ストーブの置き台ないしは本件から何らかの物を伝つて床面に出たり、あるいは、何らかの事情で起きた空気の流れによつて炎だけが床面に出たりする可能性もないではないから、その過程を一義的に特定することはできないにしても、現に床面の灯油が燃え上がつている本件においては、右のような経路のいずれかにより、サイフォンからの灯油に着いた火が床面の灯油に燃え移つたと推認するのが相当であり、その具体的な経路の不明は右認定の妨げとなるものではない。

したがつて、原判決の認定した本件出火の経緯に事実の誤認はないというべきである。

二死傷の結果について

関係証拠によれば、死亡した四名及び負傷した一名は、いずれも本件火災当時麻雀荘「○○クラブ」で麻雀をしていたものであつて、火災に気付いたときには、表道路に出る階段が火炎や煙のため使えず、店内を逃げ惑い、死者のうち三名は南側窓から戸外に脱出したが、タイル塀の内側に降りたため外側に出られず、その場で火炎により焼死し、他の一名は同店内で火炎により焼死し、負傷者は南側窓から脱出し、タイル塀の外側に跳び降りた際に左下腿骨を骨折したと認められるから、これらの死傷の結果が被告人の発生させた本件火災と因果関係のあることには、疑問を差しはさむ余地がない。

所論は、被告人の投げた消火弾がかえつて火を広げてしまつたこと、死傷者らが喧そうな麻雀に夢中であつたこと、麻雀荘の床に防音工事が施されていたこと、麻雀荘の経営者が火災発生当初に先に階下に降りてしまつたこと、麻雀荘の非常口が工事中で、ベニヤ板で閉ざされていたこと、前記南側窓下のタイル塀に出口がなかつたことなどを挙げて、死傷の結果は、これらの偶然が積み重なつて発生したものであつて、被告人の行為と刑法上の因果関係がないという。なるほど、所論指摘のような事情があつたことは認めるに難くないが、それらの存在を考慮に入れても、被告人の行為による本件火災の発生がなければ本件死傷の結果が生じなかつたことは明白であつて、その間に刑法上の因果関係があることを否定することはできず、また、右因果関係を中断するほどの事情も認められない。

三以上のとおりであるから、原判決の事実の認定に所論のような誤認のかどはなく、論旨は理由がない。

控訴趣意二(法令適用の誤りの主張)について

所論は、要するに、刑法一一七条の二(重過失失火罪)及び同法二一一条(重過失致死傷罪)の「重大なる過失」(以下「重過失」ともいう。)とは、いわゆる認識のある過失をいうものと解されるところ、被告人は本件に際し、建物の焼燬という結果も、人の死傷という結果も何ら予見していなかつたから、被告人に重過失があつたということができないのみならず、仮に原判決のように、建物の焼燬や人の死傷の結果を招く危険性が著しい場合において、その危険性を容易に認識でき、かつその危険性が現実化するのを容易に避けることができたのに、これらを怠つて結果を発生させたことをもつて重過失と解するとしても、本件ストーブのつまみを消火位置まで回したのち約三分間程度もその燃焼筒内に炎が残ることは、通常人に認識の容易な事実ではなく、被告人が右危険性を容易に予見できる状況にあつたとはいえないから、被告人には重過失が認められないだけでなく、通常の過失すら認められず、これら各点において原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令適用の誤りがある、というのである。

そこで、同様検討すると、まず、重過失失火罪及び重過失致死傷罪における「重大なる過失」とは、建物等の焼燬や人の死傷の結果がその具体的な状況下において通常人として容易に予見できたのに、これを怠り、あるいは、結果を予見しながら、その回避の措置をとることが同様容易であつたのに、これを怠つたというような注意義務の懈怠の著しい場合を指すものと解するのが相当であり、いわゆる認識のある過失をもつて重過失であるとする所論の見解を採ることはできない。けだし、法が重過失の場合を通常の過失の場合よりも重く処罰すべきものとしているのは、前者の方が後者よりも過失の程度がより重く、責任の程度がより重いと評価されるからであると解されるところ、結果についての予見がある場合がそうでない場合に比べて、一般的に過失の程度が重いということはできず、予見のない場合においても予見すべき義務の懈怠の著しいことがあり、また、予見のある場合においても結果の回避が必ずしも容易でないことがありうるからである。

本件についてみると、本件火災は前記1ないし5のような経過で発生するに至つたものであるところ、被告人は、当時本件ストーブのつまみを消火位置に回しても直ちに炎が消えないことを知つていたのであるから(被告人の検察官に対する昭和五二年一月八日付供述調書)、給油にかかるときに、まだ右炎が残つていることを予見することが極めて容易であつたうえ、本件サイフォンを使つて本件灯油缶から三角カートリッジに灯油を給油するにあたり、適時にサイフォンの電源を切らなければ灯油が三角カートリッジから溢れ出て、その灯油に本件ストーブ内の残炎が何らかの経路を経て着火し、建物の焼燬、ひいては人の死傷等の大事に至ることになるかもしれないことを通常人として容易に予見することができ、また、サイフォンを引き抜くにあたつても、急激にこれをすればサイフォン内の灯油が飛び散り、これに本件ストーブ内の残炎が着火し、周囲の可燃物の状況のいかんによつては同様の大事に至ることになるかもしれないことも同様容易に予見することができたと考えられる。そして、そのような重大な結果を回避するためには、被告人として、本件ストーブが完全に消火したのを確認した後に給油作業をするか、あるいは、三角カートリッジへの給油中はこれを見守り、万が一にも灯油が床面に溢れ出るようなことのないように適時にサイフォンの電源を切り、これができなかつたときは、内部の灯油が飛び散らないようにサイフォンを止めるべきであり、そのいずれもが極めて容易であつたことが明らかである。そうすると、本件に際し、被告人が本件ストーブ内からの火気が消失したことを確認せずに、その付近で給油を始めたうえ、三角カートリッジへの給油中その監視を怠り床面に灯油を溢出させ、あまつさえそのような危険な状況下においてサイフォンを急激に引き抜いたため、本件ストーブ内の残炎がサイフォンから落ちた灯油を介して床面の灯油に着火するに至つたのであるから、この間の被告人の行為は全体として重過失に当たるということができる。

したがつて、原判決が「罪となるべき事実」中で、被告人の右行為が重過失に当たると認定したのは相当である。もつとも、原判決は、「補足説明」中において、「芯上下用つまみを消火位置まで回した後の石油ストーブの燃焼筒内に炎が残る時間が三分程度にも及ぶことは通常人においても必ずしも認識の容易な事実であるとはいいがたい」、「三角カートリッジから灯油が溢出し始めた段階で本件サイフォンを引き抜くことは狼狽の余りの咄嗟の行為であつて、被告人のみならず通常人にとつても必ずしも回避が容易であるとはいえない」としているところ、これらの説示は、それだけを採り上げてみると、「罪となるべき事実」の記載に照らして理解し難いが、これらにより原判決の全体としての重過失の判断に誤りを生じているわけではなく、被告人の右行為に重過失を認める原判決には、結論において所論のような法令の解釈適用を誤つた違法はない。論旨は理由がない。

控訴趣意三(不法に管轄を認めた違法の主張)について

所論は、要するに、本件については、仮に被告人に過失があつたとしても、重過失ではなく、通常の過失であつて、失火罪及び過失致死傷罪が成立するにすぎないから、地方裁判所に事物管轄がなく、管轄違の判決がなされるべきであるのに、被告人を有罪とした原判決には不法に管轄を認めた違法がある、というのである。

しかしながら、本件に際しての被告人の過失が単なる通常の過失にとどまらず、重過失と評価されるものであることは、既に述べたとおりであつて、被告人の本件所為については重過失失火罪及び重過失致死傷罪が成立するから、所論は、その前提を欠いて失当というほかはない。論旨は理由がない。

控訴趣意四(訴訟手続の法令違反の主張)について

所論は、本件に際しての被告人の過失は通常の過失であつて、傷害の点は過失傷害罪が成立するにすぎないが、これについては、告訴がなく、公訴棄却の判決がなされるべきであるから、右の点についても被告人を有罪とした原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

しかしながら、本件に際しての被告人の過失は重過失であつて、傷害の点については重過失傷害罪が成立することは既に述べたとおりであるから、所論はその前提において失当である。論旨は理由がない。

控訴趣意五(量刑不当の主張)について

所論は、被告人を懲役一年六月執行猶予二年間に処した原判決の量刑は重過ぎて不当である、というのである。

そこで、原審記録を調査して検討すると、本件の主要な犯情は、おおむね原判決が「量刑の理由」において摘示するとおりであり、ことに、本件に際しての被告人の過失は、前記のとおり、多量の灯油を扱う者として甚だしく軽率なものであつて、強く非難されるべき態様に属し、その結果は、被告人経営の中華料理店とその二階の義父ら経営の麻雀荘を全焼させて、麻雀客四名を焼死させるとともに、麻雀客一名を負傷させ、三世帯の住むアパートに延焼させたほか、更に密集した近隣家屋への延焼の危険を生じさせたというものであつて、極めて重大であることなどに徴すると、被告人の刑事責任は軽くないというほかはない。なるほど、被告人の使用した消火弾が効を奏さず、かえつて火を拡大し、また、麻雀客が死亡しあるいは負傷するについては、不運な事情があること、被告人がすべての所有不動産を売却しその売却代金や、本件火災による火災保険金を拠出するなどして、死者の遺族、負傷者、類焼建物の所有者や居住者らに対する弁償に務め、ほぼその全員と示談を遂げていること、その他被告人の経歴、本件後の生活状況、反省の態度等、被告人に有利な情状も少なくはないが、これらの情状を十分考慮に入れても、被告人が原判決程度の執行猶予付きの懲役刑を受けるのは、まことにやむをえないところであつて、これが重過ぎるとはいえない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小野幹雄 裁判官横田安弘 裁判官井上廣道)

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